毎週日曜夜10時に公開されるナイト・エッセイです。あしたから職場へ向かう皆さんに、おやすみ前にぴったりな読み物をお届けします。

指と舌と夜

 

女の恋愛は上書き保存と言うけれど、だからこそ、女の胸にいつまでも留まり続けられる男は素敵だ。

そして、私にとってそういう男というのは、”昼の”男よりも断然、”夜の”男なのである。

 

 

彼が私の前に現れるのは、決まって夜だった。

彼について知っていることは、そう多くはない。

私は彼の昼のステータスに敬意を払わなかったし、彼もまた、私のそれに対してそうだった。

彼の口から出る退屈な自己紹介なんかより、私は彼の肉体そのものをはるかに欲していた。

 

 

彼はいつも特殊な匂いを漂わせていて、それは不思議なことに、夜、真っ暗な住宅街を何の気なしに二人で散歩している時などにとりわけ強く香った。

細い路地に漂う、あたたかな湯気の匂い。

塀の上に静かに横たわる、白いくちなしの花の香り。

そうしたものと混じり合うことで、彼のその匂いはよりくっきりと存在感を増し、私の体を巻き取った。

香りを通じて、彼の存在が、私の体の内側の細胞の隅々にまで染み渡るようだった。

 

 

彼と私の関係に、私は名前をつけなかった。

名前をつけても良いくらいの間柄、ではあったけど、私の些細なプライドがそれを邪魔した。

その時の私は、互いの靴下を取り違えるような安定よりも、下着をほどかれる時の悦びを優先させる女でありたかったのである。

 

 

散歩が終わり、部屋になだれ込む。

照明のスイッチに手を伸ばす前に、彼の大きな手がそれを阻止し、私の体を強引に抱きとめる。

そうして、あとは泥のように深い深い、夜の中に落ちてゆくだけ。

 

 

彼の手順は決まっていた。

私が教えたからだ。

何が起きるか分からない闇の中でこそ、それは却って効き目を発揮した。

 

 

言葉も、それ以外の何も、彼と私の間には必要がなかった。

夜が私たちの輪郭を優しくほどき、私たちは極限まで混じり合った。

彼の指が、舌が、昼に押さえつけられた私を自由にした。

私たちはきっちりと互いの欲を満たしあった。

それ以外に、何もいらなかった。

彼は夜そのものだったし、私もまた、彼にとってそうでありたかった。

 

 

彼が突然「南の島に行こう」と言い出したのは、関係が始まってから長らくの時間が経った頃だった。

”南の島で、怠惰な一週間を過ごそう’’

もともと怠惰を愛する私は喜んで彼の案に載ったが、向こうの空港に着いて落ち合った瞬間、すぐにその選択を悔いた。

 

 

明るい太陽光の下で見る彼は、夜に会う時よりもいくぶん、疲れて見えた。

深い闇の中ではうっとりするような触れ心地の肌や、指の間を心地よく行き来する髪は、白日の下、肌理の一つ一つまでが現れ、見た目の枷を与えられていた。

ここでは何もかもが裸ん坊だった。

溶け出しそうなほどに暑く、日差しは肌を切り裂くほど鋭利なのに、不思議なことに、昼に目に映し出されるあらゆるものは個々の境界線を保ち、私の中には一向に入ってこないのだった。

 

 

それぞれの境界を保ったまま、私たちは混じり合った。

昼の明るい日差しの中では、彼に仕込んだ折り目正しい手順はただの退屈なルーティーンでしかなかったし、彼もまた、そう感じているようだった。

何度めかのとき、シーツの下でとつぜん差し入れられた感触に、私は驚いて飛び上がった。

「こういうのも、いいかと思って」

すっぽりとかぶったシーツから顔を出した彼の手に握られていた、口紅の形をした小さな何か。

それを見て私は笑った。

笑うしかなかった。

彼との行為の間に、私たちの体以外のもの、ましてや言い訳を必要とするものが挟まれることなどこれまで一度としてなかった。

彼も笑った。

そして、寂しそうにもう一度、強引に手を動かした。

降り注ぐ灼熱の日差しの下、私たちは冷めたセックスをした。

 

 

住む街の空港に着く頃には、すでにこれが最後だということをお互いに分かっていた。

多分、私たちの関係を日差しに当てることで、彼は何かを清算したかったのだろうし、私もまた、心のどこかでそれを望んでいた。

ほどなくして、一切の痕跡を残さずに彼は私の前から消えた。

 

 

彼と別れてすぐ、私は次の男に取り掛かろうとした。

一人で居ることに慣れる年齢でもなかったし、私は私の夜に隙間を作りたくなかった。

けれども、なぜかそうすることができなかった。

彼が忘れられなかったからではない。

彼との完璧な夜の記憶をーー

混じり気のない、ピュアで、二人のために完璧にしつらえられた夜の記憶を、

第三者によって上書きさせたくなかったのである。

 

 

今では私は、

昼に堂々と手を繋いで歩く幸せも、

大通りで大声で喧嘩できる心地よさも、

交代で同じ湯船に浸かる安心感も知っている。

それは私にとってなくてはならないものだ。

 

 

けど、私は同時に、あの、朝が来れば消えてしまう完璧な夜の記憶をーー

この上なく不埒で、混じりけがなく、他の何にも変質しようのない関係性をもたらしてくれた男のことを、今でもそっと、一筋の香りのように心の中にくゆらせている。

 

 

 

小野美由紀

執筆

作家

小野美由紀

1985年東京生まれ。著書に、銭湯を舞台にした青春群像小説『メゾン刻の湯』(2018年2月)「人生に疲れたらスペイン巡礼 飲み食べ歩く800kmの旅」(2015)「傷口から人生」(2015)絵本「ひかりのりゅう」(2014)など。月に1回、創作文章ワークショップ「身体を使って書くクリエイティブ・ライティング講座」を開催している。


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