毎週日曜夜10時に公開されるナイト・エッセイです。あしたから職場へ向かう皆さんに、おやすみ前にぴったりな読み物をお届けします。

やがて僕たちの星は天使で満たされて

 どこかの国のことわざで、話している途中でふと会話が止まることを、「天使が通る」という。

 話題と話題の繋ぎ目、思わず言いよどんでしまったとき、言葉が尽きた瞬間、お互いにちょっと気まずい時間が流れて、「ああ、天使が通ったね」と目配せして笑う。
 

 その言葉をうのみにすると、ぼくたちの生活のなかには、たくさんの天使が行き交っていることになる。初めて両親に挨拶する恋人たちのあいだを。気だるい身体を送り届けるタクシーのなかを。久しぶりの電話で話し疲れた瞬間を。
 

 ある日、夢にあふれた子どもたちが、それを抱えきれなくなったころに、はたと思いたってパスポートを取得して、不安と期待に胸をはずませながら、空港に飛行機が着陸する瞬間を待っている。

 降り立った地で、彼ら(あるいは彼女ら)は愕然とする。あちこちで天使が通っていることに。タクシーで行き先を告げるとき。レストランで注文をするとき。ホテルにチェックインをするとき。

 

 「オライリー通りに行きたいんだけど。そこにカフェがあって、悪魔の汗みたいに苦いコーヒーを出すらしいんだ」

 

 日本語でそう言っても、ほとんど通じない。英語で言おうとしても、やっぱり通じない。かつての子どもたちは、英語の授業中にサボってうわの空だった自分を呪うんだ。そして、観光地は天使でいっぱいになる。言葉というのは、魔法使いがかけた呪文なのかもしれない。ロスト・イン・トランスレーション。

 

 やがて、太陽が溶けて肌にしたたってくる。近くの交差点で、クラクションが鳴っている。同じ言葉を何度言っても、通じないものは通じない。そんな光景が、世界のどこかで今も繰り返されている。天使のそばで。

 

 ひょっとしたら、と考える。ぼくたちが通じていると思っていることも、もしかしたら勘違いで、ほんとうはみんな違う理解をしているのかもしれない。

 かつてこんな小説家がいた。彼(そう、男だったんだね)は雑誌のページや新聞の紙面を切り刻んで、それを適当に並べ替えて遊んだ。すると、別々の文章がなんだかいい感じに繋がって読める。男はハサミを持って机に向かい、文章を切り刻むことに没頭した。

 そうやって、何冊か小説を書いた。1950年代のことだった。

 そいつは今、カフェのテラス席に座っている。シックなスーツにハットを被って。どうだ、面白いだろう、ってちょっと得意げな顔をして。うんうん、たしかにきみの作り上げた文章は、変な情感があって面白いよ。

 だけどさ、ウィリアム(そういう名前だったんだ)。ぼくたちって、もしかしたらきみの文章のように継ぎ接ぎの言葉のなかになにか勝手な意味を見出してるだけなんじゃないかな。
 そんなことを、天使が通る瞬間に考えたりするんだ。

 

「コーヒー」

 

 異国のセブンイレブンで働く青年に、語りかけた。それは注文の合図だった。しかし、青年は何も言わず、ぼくを見つめ返していた。2人のあいだを、天使が通った。

 

 どこかで懐かしい音がする。店内のBGMだ。はじける泡のような軽快な音楽。ぼくはこの音を知っている。マイケル・ジャクソンの曲だ。きれいな高音の歌声。ぼくは知っている。きっと目の前の青年も知っているのだろう。

 交通の神であるヘルメスは、竪琴(ハープ)を作ったとされている。今、ヘルメスの音楽を聴いた。メロディはすべてを超越して、ぼくたちの気持ちのなかをいたずらのように疾走していく。だから音楽は、世界中で聴かれているのだろう。

 1つのイヤホンを左右で分けて使っている恋人たちがいる。2人のあいだに、天使が通っている。ヘルメスが竪琴を弾いている。そういう光景を、ちょっと想像してみてほしい。1つのイヤホンが繋いでいるのは、2人だけだろうか? きっとちがう。

 

 音楽はアイスクリームのように溶けて広がっていく。ぼくたちのあいだを。天使が通った場所から少しずつ広がっていって、この星はアイスクリームに浸かろうとしている。宇宙からみると、たぶんそう見えるんだろう。だって、ねえ? こんなことをしているのは今のところ地球だけなんだよ。太陽の光が届く範囲では。

 

 ぼくたちは今、そういう世界に生きているんだ。

菊池 良

執筆

ライター

菊池 良

1987年生まれ。2017年に出した書籍『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』(共著・神田桂一)が累計15万部。そのほかの著書に『世界一即戦力な男』がある。


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