毎週日曜夜10時に公開されるナイト・エッセイです。あしたから職場へ向かう皆さんに、おやすみ前にぴったりな読み物をお届けします。

夜が終わり切る前に

 彼の予約してくれていた店は小さなスペインバルで、私達は二人用のテーブルに向かい合って座った。彼とはずっと昔から知り合いだったけれど、人気者の彼のまわりには決まっていつもたくさんの女性たちがいたので、彼とちゃんと話したことは、これまでに一度もなかった。ふと、女性たちの監視の目が緩んだ隙に「今度、ご飯でも行きましょう」なんて挨拶代わりに言い合うことはあっても、それは単に、大人同士の社交辞令に過ぎず、きっとみんなに同じように言っているんだろう、そんな風に思っていた。

 だから2週間前、彼から急に連絡がきて、ついに本当に食事に行くことになったとき、私は驚き、戸惑った。彼のことは、別に好きでも嫌いでもなかった。ただ、あの取り巻きの女性たちと話す彼は、いつも大して楽しそうには見えなかったし、実際、彼の豊かな知性と釣り合うほどの思慮深さを彼女たちが持ち合わせているようにも見えなかった。

 もしかしたら彼は、私といればもう少し楽しい顔を見せるんじゃないか。そんなことを、思わないこともなかった。なぜなら彼が時折発する、誰にも理解できないような複雑な言葉の真意が、不思議と、私にはいつだって手に取るように理解できたからだ。

 私だけが理解していることを、彼もなんとなく知っているような素振りを見せることもあった。それでもだからといって、二人の間に、何か特別なことが起きるということはなかったのだ。今日までは。

 

 店員に手渡されたドリンクのメニューからふと視線を上げると、同じように、こちらを向いた瞬間の彼と目が合った。彼は一瞬、照れたように笑って尋ねた。

 「何が好きですか?」
 「そうですねえ……」

 答えて、私は再びメニューに目を落とす。

 彼と私が、二人だけでいる。昨日まで現実にはなかったこの状況の不自然さに、まだ居心地の悪さがある。けれどもお互い、それには気が付かないふりをして、今、この瞬間がさも自然なことのように装っている。ごくありふれた、友人同士の食事会、そこに望む男と女。それぞれが、その場で最も無害な役を担って、演技に徹する。

 「私、赤ワインが飲みたいです」

 今、私の演じる私役の女は、これから先、二人の間に起きるかもしれない何かを微塵も期待なんてしていない。少しでも良く見られたい、好きになって欲しいなんて、思ってない。だから、彼が決めるのをしおらしく待ったり、彼に合わせようとしたりはしない。彼が演じている彼役の男も私と同じに赤にすると言い、金魚鉢のように大きなグラスに注がれた赤ワインで、私達は乾杯した。

 

 一皿ずつ運ばれてくる食事を口にしながら、いろんなことを話した。

 仕事の話、最近観た映画の話、最近読んだ本の話、彼が数年前に訪れたというスペインの話。最初は少し固かった彼の表情が少しずつ緩み、次第に饒舌になるのを見て、私は内心、得意になった。取り巻きの彼女たちはきっと、彼がこんな風に話すところを見たことなんてないだろう。

 途中、運ばれてきた素揚げのししとうを齧ると、すぐに強い刺激が襲った。
 「……このししとう、ハズレだった」
 辛さに悶えながら私が呟くと、彼が尋ねた。
 「ししとうにハズレなんてあります?」
 「え、知らない? ありますよ」
 「辛いの?」
 そこで私は、フォークに刺さったまま、まだ半分だけ残っている齧りかけのししとうを、黙って彼の顔の前に突き出した。彼は、一瞬驚いた顔をして、確認するように私を見る。私は、何も言わずに彼を見つめ返す。すぐに察した彼は、少し恥ずかしそうにゆっくりと口を開けると、私の差し出したハズレのししとうを口に含んだ。
 「……ね、ハズレだったでしょ」
 たちまち顔をしかめる彼に笑いながら言うと、彼は困ったような顔で、けれどもとても嬉しそうに、何度も、繰り返し頷く。

 

 食事の間中、彼がこちらに探るような眼差しを向けることには気が付いていた。私が気付いていることに、彼の方もまた、気が付いているのだろう。

 それでも私達は、やっぱりお互いに気が付かないふりをして、意味のないおしゃべりを続ける。心など全く乗っていないおしゃべりを。
なぜなら私達は、この未だどこか現実味のない現実に、最後までしらをきり通さなくてはならないからだ。本当ならば一緒にいるはずのなかった二人が今、こうして一緒にいることには、確かにその必然性があるのだと。だからこそもっと、どこまでも近づくことが必要なのだと。少なくともこの店を出た後に、二人が疑いもなく信じられるようになるまでには、もう少しだけ、時間を稼ぐ必要がある。

 

 テーブルの上に置かれたワイングラスの細い柄を弄ぶ彼の指先。
 彼が言葉を発するたびに律儀に上下する喉仏。
 私のフォークの先を包んだ彼の唇。
 彼の話を聞いているふりをしながら、代わる代わる見つめる。

 夜が終わり切る前に、私達はこのふざけた嘘を、本当にしなくてはならない。

 

 

 

紫原明子

執筆

エッセイスト

紫原明子

1982年福岡県生。16歳と12歳の子を持つシングルマザー。個人ブログ『手の中で膨らむ』が話題となり執筆活動を本格化。著書に『家族無計画』(朝日出版社)『りこんのこども』(マガジンハウス)がある。


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