毎週日曜夜10時に公開されるナイト・エッセイです。あしたから職場へ向かう皆さんに、おやすみ前にぴったりな読み物をお届けします。

目を開けたら、魔法のように、2人は。

体温計を口にくわえながら、最後にした会話を思い出していた。

あのときの吐息を覚えている。それはため息に近いのだけど、どちらかといえばあきれて、気持ちの離れていく音で。

彼女の瞳は、目の前のぼくからピントが外れて、どこまでもどこまでも、離れていって。

体温計が鳴って、この微熱は二日酔いでも恋でもないことを教えてくれる。

「ミケ」

飼い猫に話しかけた。ふっとぼくの顔を見て、すぐ目をそらす。彼女と同じように。

外はぽつぽつと雨が降っていて、湿気った空気と下校する子どもたちの声が、耳をくすぐって落ち着かない。

数十センチの距離さえもどかしかった日々が、モノクロームになっていく。

外に干しっぱなしの洗濯物が、雨に打たれて濡れていくのを想像する。酸性雨を吸って重くなったシャツは、まるで今の自分みたいだね。

あのさ。

2人の関係ってさ。

何十年かに一度やってくる流星群みたいに、一瞬すれ違っただけなのかな?

「風邪、引いちゃってさ」

十数分前に送ったLINEのメッセージは、まだ既読にならない。

ひょっとしたらすぐ電話がかかってきて、「もしもし」って言ったら、「どうしたの?」なんて聞いてきて。2人の時計が昔のように、また同じ時間をさしだして。

インターフォンが鳴って玄関を開けたら、誰もいなくて、ドアノブにビニール袋が下がっていて。そのなかには明治のヨーグルトと、「早く元気になってね」なんてメモが入っていて。

コンバースのスニーカーで階段を駆け下りる彼女の足音がして。その口元はきっと少し笑っていて。

だけど。

現実にニヤけているのは、自分の唇だった。それに気がついてもどかしくなる。あのとき2人で飲んだコーヒーよりもビターな後味が襲ってきて、下唇を少し噛んだ。

朦朧とした意識は、少し気を抜くと妄想の世界に誘い込まれて、切られたラズペリーパイのように静かにシロップが広がっていく。魔法のように。

「ねえ、ミケ、お腹が空いた」

かすれた声で、猫に話しかけても、返事はしてくれない。Siriよりも冷たくて愛しい猫。猫もLINEも返事はこない。返事をするのはSiriだけ。ねえ、Siri、返事が返ってくるほうがさびしいこともあるんだね。

立ち上がって、キッチンに行った。ひんやりと冷たい床。「もう終わりだよ」と告げるように。

冷蔵庫からロッテのチョコレートを取り出して、舌の上に置く。ベッドに戻って寝転がり、タオルケットと毛布を頭までくるまりながら、また目を閉じる。

チョコレートが溶ける前に。

この体温が落ちる前に。

広がり始めた甘みを感じながら、祈った。

目を開けたら返信が返ってくる。きっと。

そうだ、返信がくるんだ。

そして、それから。

きっと。

魔法のように。

 

 

菊池 良

執筆

ライター

菊池 良

1987年生まれ。2017年に出した書籍『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』(共著・神田桂一)が累計15万部。そのほかの著書に『世界一即戦力な男』がある。


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