毎週日曜夜10時に公開されるナイト・エッセイです。あしたから職場へ向かう皆さんに、おやすみ前にぴったりな読み物をお届けします。

クリスマスだからって全部許されると思うなよ

 「もっと甘えていいんだよ」
 彼はいつも私にそう言うのだった。

 彼は今から10年前、私がまだ二十歳になったばかりの頃、ほんの一瞬、私の恋人だった。当時のアルバイト先だったカフェのオーナーで、私より15歳年上。でも、そんなことを感じさせないほど屈託なくよく笑う、少年のような人だった。なのに不思議と、背伸びして大人ぶる同い年の男の子たちより、はるかに大人に見えた。

 彼がいくら恋人であったって、もっと甘えていいと言われたって、あの頃私には、その方法がまるで分からなかった。それでいつも、ただ困って固まってしまっていたのだけれど、あるとき、私はとうとうばかみたいに尋ねた。

 「甘えるって、どうやって?」

 すると彼は大きく笑って、私を子どものように自分の膝の上に抱えた。それから、私の頭をゆっくりと自分の首元に倒し、自らの長い手の指に、私の髪を絡ませるようにして、ゆっくりと頭を撫でた。

 「こうやって」

 得意げに短く言う彼の声を、彼の腕の中で聞く。
 大人になって、誰かに自分の体重をすべて預けることも、こうして頭を撫でられ続けることも、すべて初めてのことだった。落ち着かなくて、最初はぎゅっと身をこわばらせた。すこし辛くなってきたので「なるほど、分かりました」と言って、彼の膝から立ち上がろうとする。ところが彼はぎゅっと、私を抱える腕に一層力を込める。それで結局は仕方なく、もう少しそのままの体制でいることになった。不思議なことに、長いことそうしていると、だんだん体からすこしずつ、余計な力が抜け出ていくのを感じた。私の肺が呼吸をしたり、私の心臓が脈打ったりすることをたとえ今、やめてしまったとしても、すっかり彼のものと一体になった私の体は、もはや彼の呼吸と、彼の鼓動に身を任せるだけで、十分に生きられるような、そんな気がした。
 人に委ねることが甘えることだとすれば、たしかに、悪くない。
 私はしばらくそうして、彼の中に溶け込んでいた。

 それから私はゆっくりと彼の手を解いて、彼の隣に厳かに座り直すと言った。

 「ありがとうございました。……じゃあ、交替」

 え、交替? きょとんとする彼を、彼が私にしたのと同じように、今度は私の膝に抱える。それから、彼の頭を首元で受け止める。そしてやっぱり、さっきとまったく同じように、ゆっくりと繰り返し、手のひらで撫でる。

 「ははは、俺もやられるとは思わなかった」照れながら彼が言う。
 私は、黙っている。
 「重いでしょ、もういいよ」彼が立ち上がろうとする。
 それでもやっぱり私は黙って、彼を逃さないでいる。

 すると彼はようやく諦めたのか、少しずつ体の力を緩める。私の体に、彼の重さがじわじわとのしかかる。私の呼吸と鼓動が、彼により強く伝わるように、体を一層、密着させる。

 私より長身の彼は、私が抱えるには今ひとつおさまりが悪かったけれど、それでもできる限り体を小さくして、私の言う通りにしている。ふと気がつくと、彼の呼吸と、私の呼吸とがきれいに重なっている。彼はじっと無表情で、虚空を見つめている。

 何者かである彼と、何者でもない彼、その両方を知っているのは私たった一人だと思っていた。けれども、そうではなかった。それを知ったのは、甘え方を教わったあの日から、わずか数日後のことだった。彼の“家族”を名乗る女性が、ふいに私の前に現れてこう言った。

 「夫のつまらない遊びに付き合わせてしまって、ごめんなさい」

 私はその日のうちにアルバイトを辞め、彼との一切の連絡を断った。

 一昨日、そんな彼と思いがけない再会を果たした。
 クリスマスで賑わう街の真ん中で、真っ先に彼を見つけたのは残念ながら私の方だった。私の視線に気付いた彼は、私より一足遅れてこちらへ視線を向ける。一瞬驚いた顔をして、それからすぐに、あの懐かしい少年の笑顔を浮かべた。けれどもよくよく見るとそこには、以前なら決してなかったはずの、ある種の諦めに似た何かが垣間見えた気もして、そう思った直後にどんよりとした気持ちに襲われた。この直感に、自分の願望が投影されていないと言い切ることはできるだろうか。

 そんなことを考えている間にも彼はゆっくりと私に歩み寄り、とうとう目の前までやってきた。

 「久しぶり」

 この顔を、この体を、私はあのときたしかに体の中に取り込み、私のものにしたのだ。
 私が何も答えずにいると、彼が続けた。

 「クリスマスだからって全部許されると思ってるわけじゃないけど……でも、今度ご飯でも、どう?」

 

 

 

紫原明子

執筆

エッセイスト

紫原明子

1982年福岡県生。16歳と12歳の子を持つシングルマザー。個人ブログ『手の中で膨らむ』が話題となり執筆活動を本格化。著書に『家族無計画』(朝日出版社)『りこんのこども』(マガジンハウス)がある。


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