毎週日曜夜10時に公開されるナイト・エッセイです。あしたから職場へ向かう皆さんに、おやすみ前にぴったりな読み物をお届けします。

深夜のバスルームでステーキ肉を抱く

 「サカイさん、そろそろ恋愛モノをですね」

 

 エッセイの担当編集者が私を急かす。彼は私に色気のある文章を書かせようと必死だった。5年前に結婚して子どもたちが生まれてからと言うもの、色っぽい文章なんて久しくWordに打っていない。私生活でも、色恋になんて触れていなかった。おしりふきを買い忘れ、枚数を節約しながら子どもの尻を拭い、指にうんちが付いて落ち込むような男に色っぽい文章なんて書けるはずがないのだ。

 

 だからといって「俺はもう上がっちゃったんだよ」なんて友人たちに吹聴するのもカッコ悪くて嫌だった。いつだって自分は男を隠し持っていて、いざというときは悪い獣に変身できるのだと信じていたい。しかし実際は、女性に「サカイさん、その靴かわいいですね」なんて言われると、ハニートラップなのではないか、回答次第ではセクハラになるのではないか、と勘ぐり「あ、ありがとうございます」と怖気付くしかなかった。

 

 そう、私は順調に「恋愛できない男」になっていたのだった。

 

 考えてみれば、結婚してからの自分は、健全過ぎてかえって不健全な生活をしてきたと思う。酒を飲まずタバコも吸わず、ギャンブルはおろか趣味さえ持っていない。友人ともインターネットで言葉を交わすくらいでわざわざ会うこともなく、車のエンジンをかけるときはスーパーへの買い出しかトイザらスに行くときぐらいだ。

 

 妻の知らない、危険な私が欲しかった。妻になにか隠し事をしたい。そしてそのようすを、色気のある文章に残したい。

 

 そこで、彼女を作ることにした。想うだけで心が跳ね、深夜のツイッターにこじらせたポエムを投稿させてしまうような、そんな素敵な彼女。そう、ステーキな彼女。ステーキを彼女に見立て、妻にバレないように、エッセイの締め切りまでステーキとの浮気を楽しむことはできないだろうか。

 

 こうして、私はステーキを彼女にすることにした。

 

 ステーキを彼女にしてからというもの、生活は潤い始めた。夜に「まいったな、急遽打ち合わせに行かなきゃいけなくなった」と妻に言い、仕事のふりをして一人ステーキ屋に車を走らせる。300gのリブロースをさまざまなソースでしつこく楽しみ、口を拭って家に戻る。玄関でジャケットについた肉の匂いを消臭剤でごまかし、妻に「なんとか問題解決したよ」と嘘をつく。ちゃんと家族と夕飯だって楽しむ。私は器用で悪い男なのだ。ポケットの中のステーキ屋のレシートをくしゃくしゃにして、わざと妻の部屋のゴミ箱に捨てる。ステーキとの浮気がバレる原因として最も多いポイントカードでさえ、財布に入れっぱなしにした。私は気づけば、週に4度ほどナイフとフォークを握った。妻に隠れてステーキを食うという行為に、私は完全にハマっていたのだ。

 

 アメリカンでワイルドなステーキ、安価に楽しめるお手軽なステーキ、いきなり楽しめるステーキ。数件のステーキ屋を経験した手練れの私は、さらに刺激を求めた。プロの肉だけでは物足りなくなっていたのだ。もっと自分色に染まる、素人の女性と戯れたい。

 

 「明日の朝使う企画書を会社に忘れてしまった。取りに行くついでに会社で作業もしたいから、先に寝ていて」。心配する妻に嘘をつき、家からだいぶ離れた24時間営業のスーパーに行く。精肉コーナーで400gの分厚いテンダーロインを見つけ、車の助手席に座らせた。家の前の駐車スペースに車を入れる際、緊張のせいかいつもより壁際に寄せすぎてしまい、車庫入れを2回やり直した。口の中がやたら乾いている。見ず知らずのステーキ肉を家に連れ込むという行為に、こんなにも罪悪感を感じるとは思ってもみなかった。

 

 深夜1時。家族が寝静まった自宅のキッチンで、生肉をじっと見つめる。分厚いその身体を見て、少しだけ弱気になった。私ももう37歳だ。こんなに分厚い肉を抱けるのか? 本屋で急遽買った「ステーキの焼き方」の本をめくり、中学生時代に友人と読んだセックスのハウツー本を思い出す。スーパーにいた彼女の身体はすっかり冷えていて、常温に戻す必要があった。そこで、彼女と風呂に入ることにした。

 

 保存袋に入ったステーキ肉と一緒に浴槽に浸かっていると、不思議な気分になった。このエッセイを書くためにはじめたステーキ肉とのいびつな生活に、違和感を感じなくなっていた。それどころか、袋の中でやわらかく、薄いピンク色になっていく彼女を愛おしいとさえ感じている。私たちの肉体は、ともに40度になっていた。

 

 湯から上がった肉を、澄ましバターが広がる熱したフライパンの上に寝かす。彼女は身体を仰け反らせ、ジューッと声を上げる。思った以上の大きな音に、妻が目を覚ますのではないかと私はひやひやした。レアに焼きあがった彼女を皿に寝かせ、塩胡椒だけで一気に平らげた。やはり400g37歳の男をそれなりに困らせ、皿の淵で徐々に白く固まっていく脂が、健全でない我々の関係を象徴していた。こんな生活はいつまでも続けられない。

 

 こうして、妻の知らない私とステーキ肉の日々は終わった。

 

 この原稿を手渡された編集者はきっとがっかりすることだろう。サカイは二度と色気のある文章を書く気はないのだろうとあきらめてしまうかもしれない。私だって「ステーキ肉は一種のメタファーですよ。実際は……わかりますよね」くらい言いたかった。今回はステーキ肉と風呂に入ることしかできなかったが、いつだって悪い男になれる。

 

 とはいえ、耳元で「私のことも40度にしてくれませんか」と囁くいやらしい女性にたとえ出会えたとしても、「そ、そんな大きな袋はありませんよ」と私は怖気付くのだろう。きっと。

 

 

サカイエヒタ

執筆

株式会社ヒャクマンボルト代表

サカイエヒタ

ライター、編集、漫画原作など。著書に「かぞくとわたし」(KADOKAWA)。奥さんと娘2人と猫2匹と一緒に暮らしている。

Site: http://1000000v.jp/


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