毎週日曜夜10時に公開されるナイト・エッセイです。あしたから職場へ向かう皆さんに、おやすみ前にぴったりな読み物をお届けします。

いちばん甘い眠り

 背丈より高いところから飛び降りてはいけません。小学生のころ、両親からたびたびそう叱られた。僕は塀や柵を見たら必ず登りたくなり、そして飛び降りたくなる子どもだった。大きくなってもそのくせは残り、進学した大学の近くにバンジージャンプ場を見つけて通った。そのうち高飛び込みの選手みたいに綺麗なフォームで落ちるようになった。そうするとなんだか飽きてしまった。予測がついて、つまらなくなった。僕はどうやら、飛び降りるという行為そのものではなく、圧倒的な恐ろしさの先にある無重力感のようなものに焦がれていたのだった。

 

 僕は大人になってもその感覚を追いつづけた。ひりひりすると聞いてギャンブルを試してみたけれど、つまらなかった。ルールが明確すぎるし、確率論そのまますぎる。負けの予測がつくものはつまらない。逆に「ここまで行けば勝つ」とわかりきったことも、一生やるほどには好きじゃなかった。試験勉強だとか、論文を書くだとか。

 

 そんなだから僕の社会人生活はいかに知力を尽くしてリスクを取るかに費やされた。言うまでもないけれど、リスクというのはリターンのあるものだけを指す。でも一方で、負ける可能性がない仕事は僕を気持ちよくしない。脳を絞り出すみたいに思考を回して限界まで労働すると僕は気持ちよくなった。息をどこまで吸ったらいいかわからなくなって肺がひゅっと音を立ててからが本番だ。自分の能力と時間のすべてをつぎこんで判断をする。その結果を待つ。不確定事項に心臓を握られ、結果を待つだけの時間がやってくる。そうしたら僕の意識はまっすぐに眠りに落ちていく。それがすごく好きだった。

 

 自由落下とは遮蔽のない落下の旨である。僕は生まれつき自由落下がすごく好きで、意識をどこかから投げ落としたくて、そればかり追っているのだと思う。
 起きているかぎり働いているような生活をした。それについてくる社会的な肩書きみたいなものは、どちらかというと恥じていた。だって僕の第一の動機は「競争社会で認められたい」とか「自分なりの正義を追求したい」とか、そういうのじゃないからだ。物心ついたころに知った身体感覚、あの墜落の感覚を追いかけることだけが僕の真の目的だったからだ。

 

 そうして案の定、僕は退屈しはじめた。仕事に慣れてしまった。予測できる。先が見える。仕事がひとやま越えるとその都度虚脱するが、虚脱具合があんまりよろしくない。バンジージャンプと同じパターンだ。昔つきあっていた女の子は「いいかげんにそういうの引退しないと、じきに過労死する」と言っていたけれど、僕はぜんぜん「そういうの」をやめる気になれなかった。

 

 でも近ごろ、顔色がいいじゃない。つきあうのをやめてからもときどき食事をしている女の子——もうぜんぜん女の子じゃないけれど、僕にとってはずっと女の子であるような人——が言う。
 それはそうでしょう、と僕は言う。ちかごろはワークライフバランスを整えている。とても健康だ。ジムとか行ってる。ついに成長したの、と女の子が訊く。ついに限界まで自分を追い込む変態っぽい快楽を捨てたの。まさか、と僕はこたえる。僕は成長しない。飽きないようにやり方を変えたんだ。年をとったら追い込むべきは身体じゃない。精神のあらゆる側面だよ。僕は先だって転職しただろ、それがすごくいいタイミングで、今の会社は潰れるか派手に回復するかの瀬戸際だ、それでこのあいだ、いわゆる私財を擲つというやつをやったよ。預貯金その他が完全にゼロだよ。

 

 女の子は首をゆっくりと横に振る。資産家でも何でもない個人の私財でどうにかなるの、その会社は。ならない、と僕はこたえる。なるわけがない。僕がそのようなことをしたと周囲が知るとうまくいく可能性が少し上がるからやった。回収できるかねえ。僕はね公私の別とかもうどうでもいいんだ、やれることは文字通りぜんぶやった、恐ろしくて胸がいっぱいだよ、最高だよ、とても甘い気持ちだよ、今夜はたいそう気持ちよく眠れそうだよ、うん、帰って寝る。

 

 あなたは成長しない。女の子が言う。とてもやさしい声で言う。おやすみなさい。だいじょうぶ、あなたって意外と死なないから。
 僕は家に帰る。横になる。世界からゆらりと離れる。恐怖を吐き空白を吸うような呼吸をする。そのあとにあの自由落下がやってくる。

 

 

槙野さやか

執筆

槙野さやか

2009年より、短編ブログ『傘をひらいて、空を』を開始。「伝聞と嘘とほんとうの話」を織り交ぜたエントリーを投稿している。1977年、東京生まれ。

Site: http://kasasora.hatenablog.com/


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