毎週日曜夜10時に公開されるナイト・エッセイです。あしたから職場へ向かう皆さんに、おやすみ前にぴったりな読み物をお届けします。

私とアノ人が入れ替わった日

 

 人の記憶は忘れやすく、そして突然思い出す。

 仕事帰り、私は狭い路地を縫うようにして、自宅までの夜道を歩いていた。秋が終わろうとしていて、上着にカーディガンしか羽織らなかったことを後悔していた。ガサッと物音がし、思わず視線を動かすと、黒ぶちの猫が目の前を横切っていく。何気ない光景だった。しかし、私は立ち止まらざるを得なかった。

「あっ」

 猫が走っていく姿をきっかけに、断片的な光景がいくつかフラッシュバックする。コーヒーにミルクが溶けるように混ざり合いながら、頭のなかで早回しされていった。さっきまでまったく覚えていなかった事柄が、噴き出すように甦ってくる。記憶が一気にずり落ちてきた気分だった。

 

 

 18歳の秋。私は疲弊しながら家に向かって歩いていた。その年の夏にそれまでぼんやりとしか考えていなかった進路を真剣に考えた結果、一念発起して大学受験することに決めたのだ。しかし、すでに受験勉強を本格化させている周りに追いつくには、かなりの勉強時間が必要だとわかった。私は寝る間も惜しんで勉強していたのだ。私は東京の大学に行きたかった。

 予備校に行くお金がなかったので、学校が終わると近所の図書館で自習した。そこが閉まると家に帰って晩ごはんを食べ、自室で勉強をする。その日も同じ予定だった。ずいぶんとゆっくり歩いていた。家に着くと勉強を再開しなきゃいけないので、沸騰しそうになっている頭を夜風で冷やすようにして、ゆったりと歩いていたのだ。

 

 さっきからどこかで音がする。それが猫の鳴き声だと気づくのに、数秒かかった。帰路の途中にある神社の境内から、その声はする。ちょっと見に行って見ようか。数分間、猫と戯れるだけなら、何のバチもあたらないだろう。私は鳴き声に導かれて、境内に入る20段ほどの階段を昇っていった。

 すると、すでに先客がいるのに気づいた。学校の制服を着た男子がしゃがみ込み、黒ぶちの猫を撫でていた。男子は私に気がつくと、恥ずかしそうに立ち上がった。見覚えのない顔だった。立ち去ろうとする彼に私は「待って」と声をかけた。誰かと話したかったのだ。

 

「あなたも猫の鳴き声を聞いて?」
「……うん」
 彼は頷く。
「野良猫かなぁ」
 私はしゃがんで、猫の頭を軽く撫でた。
「たぶん」と彼は言う。「部活の帰り?」
「ううん」と否定し、私は図書館で勉強していたこと、家に帰ったら続きをやらなきゃいけないことを喋った。彼は「大変だね」と相づちを打つ。

 私たちは猫をあいだに挟みながら、取り留めのない話をし続けた。ストレスでぎゅっと凝り固まった時間が、間延びしたような気がした。気がつくとすっかり1時間近く経っていた。まずい。親に怒られてしまう。私は立ち上がり、「もう行くから」と入り口の階段のほうに行った。

 

「あっ」
 振り返って私が聞く。
「そういえば、あなたの名前は?」
 これが最後じゃない気がした。また何度でも会う気がした。ここから何かが始まる予感がしたのだ。
 私の質問に、彼は少し間をおいてから答えた。

「森田一義」 
彼はそう言った。

「えっ?」
 うまく聞き取れなかった。

「周りはタモリって呼んでいるよ」

 声にださず口のなかで「タモリ」とつぶやいた。彼の目を見る。サングラスをしているので、表情はわからない。しかし、彼の目がまっすぐ私を見つめていることが、なぜかわかった。

「あっ」

 私とタモリの足がもつれあって、階段を転げ落ちた。身体のあちこちをぶつけながら、それはもう勢いよく地面に打ち付けられた。「痛った……」とつぶやきながら何とか身体を起こすと、目の前に私が倒れていた。

「えっ……」

 頭が混乱する。目の前の「私」は頭を押さえながら起き上がると、私を見て、目を見開いた。

「なんで、おれが……?」

 一瞬にして理解をした。私とタモリの身体が入れ替わってしまったのだ──。

 

 

 それ以来、私はタモリとして生きた。早稲田大学に進学し、卒業後は福岡でボーリング場の支配人となり、30歳をすぎてから芸能界デビューして昼の帯番組を20年以上こなした。

 記憶とは不思議なものだ。こんなことも忘れてしまうなんて。そして、思い出すときは一瞬で、何もかも思い出す。

 黒ぶちの猫をもう一度見た。こちらを見てにゃあと鳴く。私はまだ何かを忘れているかもしれない。しかし、それを思い出すのはいつなのかわからない。

 

 

菊池 良

執筆

ライター

菊池 良

1987年生まれ。2017年に出した書籍『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』(共著・神田桂一)が累計15万部。そのほかの著書に『世界一即戦力な男』がある。


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