毎週日曜夜10時に公開されるナイト・エッセイです。あしたから職場へ向かう皆さんに、おやすみ前にぴったりな読み物をお届けします。

妻の実家で眠れない

 どおん。どおおん。太鼓を叩くような重い音が、ガラス戸の向こうから響いてくる。

 波が防波堤を打つ音だ。

 その度に、家全体がみしみしと震える。

 

 私は目を開けた。

 暗い天井が視界に広がる。

 

 横で寝ている妻は、すうすうと健やかな寝息を立てている。

 障子を一枚隔てた向こう側からは、んごぉ、という義父と義母のいびきが聞こえてくる。

 海沿いにあるこの家は、常に波の音に囲まれている。

 内陸育ちの私からすれば、こんな環境でよく眠れるな、と思うが、ここに住む彼らにとってはごく当たり前のことらしい。この家で育った妻にとっても。

 んごお、ごお、すうすう。

 妻と彼らの寝息が、リレーのように連なり聞こえてくる。

 こんなとき、私は妻を遠い存在のように感じる。

 

 眠れない。もう何日も前から。

 今回だけではない。

 妻の実家に来た時、私は決まって眠れなくなる。

 

 私は寝ている彼らを起こさないように気をつけながら家の外に出た。

 カラカラ、とサッシ戸の頼りない音がする。

 月夜だった。

 庭の松の木の影がべったりと濃く地面に落ちている。

 私は海岸へと続く家の前の一本道を、月を見上げながら歩いた。

 

 結婚して4年が経つ。

 南三陸の沿岸にあるこの家で生まれ育った妻は、ここが好きらしく事あるごとに帰省する。

 私も、断るべき理由もないのでつい連れてこられてしまうのだが、そのたびに不眠で苦しむことになる。

 

 原因はわからない。

 義両親は良い人たちだ。私にも親切にしてくれる。

 しかし、まだ日の明るいうちからビールを開けては、「飲もう」という割に口数も少なく、ただテレビの前に陣取り野球中継を眺めている義父と、気を回してくれるのはよいが、こちらの胃の容量もお構い無しに「食べなさい」と大量のおかずを次々に差し出し、食べ終わるまでは無言で目の前に居座りにこにこと私を眺め続ける義母との間で、私は一体どう振舞って良いのか、いまだにわからない。

 結果として、すみません、すみません、とただひたすら恐縮しながら気詰まりな時間を過ごすことになるのだった。

 

 10月の南三陸はすでに寒い。

 パジャマの上に、カーディガンを羽織っただけのこの格好では心もとない。

 

 しばらくすると浜に出た。

 砂地は真っ黒な一枚の帯のように、のっぺりと向こうまで広がっている。

 海の家の残骸のバラックがぽつんと立っている以外に、見渡す限り何もない。

 

 なぜ、眠れないのだろう。

 

 不意に、私は砂浜の真ん中に何か黒い人影のようなものが立っていることに気づいた。

 近づいてみると、それは、床屋にあるような黒い革張りの散髪台だった。

 

 なぜ、こんなものがここに?

 

 「髪をお切りになりますか」

 

 突然、背後から声が聞こえ、驚いて私は振り返った。

 

 そこに立っていたのは巨大な蟹だった。

 

 そのハサミは生き物のそれとは思えないほど鋭くたくましく、またそこから胴へと続く前脚の節はしなやかで、精密に動きそうだった。

 

 驚いたまま何も言えない私に向かって、蟹は続けた。

 

 「腕は確かです。お早く仕上がりますよ」

 

 そうして口からぷくぷくと泡を吹いた。

 

 それを見て、私は妻から散髪しろと言われていたことを思い出した。

 

 「お願いします」

 

 私は散髪台に腰掛けた。

 

 蟹はふぁさ、と黒いケープを私の体の前にかけると、さらにぷくぷくと泡を吐いた。

 細かな泡が私の頭を包んでゆく。

 

 しゃきん。

 

 背後にハサミの音が響いた。はらり、と髪の落ちる気配がする。

 

 しゃきん、しゃきん。

 ぶくぷ。ぶくぷ。ぶくぷぶくぷぶくぷ。

 

 沖の方を向いて腰掛けた私の前には、茫洋と海の闇が広がる。

 その手前ではほのかに白い波濤が闇を押し返し、生き物のようにうごめいている。

 

 ざざん、ざざん。

 しゃきん、しゃきん、しゃきん。

 ぶくぷぶくぷぶくぷぶくぷぶくぷぶくぷぶくぷ。

 

 ハサミの音、波の音、泡の音が鼓膜を占拠する。

 

 「お客さん、このあたりの人じゃないでしょう」

 

 「はい。妻と一緒に東京から来ました。妻の実家がこの辺で、ついてきたんです」

 

 「そうでしょうな」と蟹は慇懃無礼に答える。

 

 「いつも、ここで店を開けているのですか?」

 

 私は聞いた。

 

 「ええ。満月の晩はいつも」

 

 蟹の声は砂混じりでざらざらと聞き取りづらい。

 泡を吹き出しながら喋るのでなおさらだ。

 

 「ここで何をしていたのですか?」

 「眠れなくて、海を見ていたのです」

 

 不意に、足元に異変を感じて私は見下ろした。

 小さな蟹が、私の靴の上を這っていた。

 一匹だけではない。

 何千、何万という小さな小さな蟹たちが、砂浜の上を海に向かってすごい勢いで行進している。

 私は驚いた。

 小さな河ほどの蟹の群はそのうち広がり、砂浜じゅうを埋め尽くした。

 彼らの足音が、波の音をかき消す大音量で浜に響く。

 

 ざざざ。ざざざ。

 ざざざざざざざ。

 

 何匹かは私の足に這い登ったり、ケープに爪を引っ掛けてぶら下がったり、サンダルの中に入り込もうとする。

 

 「子どもたちが、失礼をしています」

 

 蟹は紳士然とした口調で言った。

 

 「あなたの子ですか」

 

 「月夜の晩には、こうして陸地から海に向かって行進するのです。家内が海の中で待っているのでね」

 

 「……これだけ子沢山だったら、きっと、さぞかし賑やかで楽しいことでしょうね」

 

 蟹相手に、なぜだか私はおべっかを口にした。

 言った途端、いたたまれない気持ちになった。

 

 「ただ、生まれるからそのままにしているだけです。自然の摂理ですから」

 

 蟹は平坦な口調で言った。

 

 「勝手に生まれて、勝手に死ぬだけです。楽しいとか、嬉しいとか、そう言ったことは感じません。命に意味づけを行うのは人間だけです」

 

 私ははぁ、と言ったまま、黙り込んだ。

 

 そのうち子蟹たちは去り、浜辺は再び静かになった。

 

 「何か、眠れない理由でもあるのですか」

 

 蟹が再び口をきいた。

 

 「妻に、子供ができたんです」

 

 私は恐る恐る口にした。

 

 「今、妊娠4ヶ月です。妻は実家に帰りたがり、毎週末のように、こうして義実家に泊まりに来ているんです」

 

 ざざあん、ざざあん。闇の中に、急に大きくなった波の音が響く。

 

 「嬉しくないわけじゃないんです。妻もとても喜んでいる。義両親も。それが彼らの長年の望みだったから。けどーー」

 

 私は再び振り返る。

 

 「怖いんです。父親になるのが」

 

 蟹はじっと私を見ている。

 蟹のくろぐろとした丸い目玉の中に、私の顔が写っている。

 

 「子供を、堕ろさせてしまったことがあるんです」

 

 私は続けた。

 

 「いや、正確には、相手が自分でそうした。僕が追い込んだんだ」

 

 ぷつ、ぷつ。目玉の球面に映る男の額に、玉のような汗が浮かぶ。

 

 「若い頃、私は役者を目指していました。自分ならきっと凄い役者になれる、そう信じて奢りきっている、いやな若者でした。当時付き合っていた彼女にも、『俺の夢の妨げになるようなことは一切するな』といつも言い聞かせていました。

彼女は相当悩んだのでしょう。

気付いた時には手遅れでした。

私が彼女の身に起きたことを知ったのは、もうすでに5ヶ月がたたんとする時でした。様子のおかしい彼女を見て、私は彼女に自分がなにをしてしまったのかをはじめて知りました。

彼女は言いました。

『私が勝手に決めたことだから、あなたのせいではない』と。

彼女は心身ともに大きな傷を負い、我々の関係はこの一件で大きく変わりました。

私は彼女と関係を続けようとしましたが、彼女の中では、それによってすでに何かが壊れてしまったようでした。

私の中でも何かが壊れました。

ほどなくして我々は別れ、私は役者をやめ、就職しました。職場で今の妻と出会い、結婚し、今に至ります」

 

 ざあん、ざああ。ざあん、ざああ。

 大きな巻物のような波が、闇の向こうから押し寄せてくる。

 蟹は黙ったまま、てらてらとした甲羅を光らせている。

 

 「妻はこのことを知りません。話そうとも思わない。むしろ話してはいけない。そう思います。ただ、何も知らずにニコニコしている妻と、義両親の顔を見ると、たまらなく苦しくなるのです。自分がーー自分のような人間が、本当に、父親になって良いのかと」

 

 「なぜ、駄目なのですか」

 

 蟹は喋った。

 

 「命は因果を求めません。人の理にはかないませんでしょうが、生物の世界はそういう風にできています」

 「それは」

 「命に倫理を糊付けするのは人間だけです。どうせ生まれて、どうせ死ぬだけです。そこに意味を持たせようとしなくていい」

 

 「……私には、とてもそんな風には思えません」

 

 蟹はケープを取ると、

 「おかえりください」と言った。

 散髪は済んでいた。

 

 家に帰り、寝室に滑り込んだ。

 妻は先ほどと同じように、すやすやと寝息を立てて寝ている。

 その、月明かりに照らされた青白い鼻梁を見ていると、私はなんだか自分がばかみたいのような気がして、そっと妻の鼻を指でつまんだ。

 「んご」と妻は派手な寝息を立てた。

 

 朝目が覚めると、居間に朝餉(あさげ)が用意されていた。

 椀の中身は蟹汁だった。

 蓋を取った途端、ねばり気のある磯の香りがむわりと鼻腔をつく。

 「今朝市場で買ってきたばかりなんよ」と義母が台所から姿を見せずに言った。

 

 妻が起きてきて、私の頭を見て言った。

 「なぁに、そのあたま」

 「ねぼけて夜中に自分で切ったみたいなんだ」

 「なんだか、ぶかっこうねぇ」

 妻はこっそりと耳打ちする。

 「ねぇ、あの話、考えてくれた?」

 「生まれる前に、おとうさんとおかあさん連れて旅行に行く話?」

 「そう。なるべくはやく決めましょうよ」

 「いいよ。今日話そう」

 妻はやった、と小さく呟く。せりだしたお腹は、昨日よりも心なしか大きく見える。

 

 ふいに耳の奥に違和感を覚え、私は頭を右に傾けて振った。

 耳奥から這い出てきたのは、小さな小さな、米粒ほどの大きさの子ガニだった。

 

 

小野美由紀

執筆

作家

小野美由紀

1985年東京生まれ。著書に、銭湯を舞台にした青春群像小説『メゾン刻の湯』(2018年2月)「人生に疲れたらスペイン巡礼 飲み食べ歩く800kmの旅」(2015)「傷口から人生」(2015)絵本「ひかりのりゅう」(2014)など。月に1回、創作文章ワークショップ「身体を使って書くクリエイティブ・ライティング講座」を開催している。


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