毎週日曜夜10時に公開されるナイト・エッセイです。あしたから職場へ向かう皆さんに、おやすみ前にぴったりな読み物をお届けします。

真夜中は何色

 夜は黒ではない。青である。小さいときに気づいた。そのときのことはよく覚えている。母に連れられてJR池袋駅で山手線を降りたときのことだった。就学前のわたしにとって電車は非日常であり、だから視界に入るものすべてに焦点を合わせたくて、要するに浮ついて、きょろきょろしていた。電車からホームに向かって足を伸ばしながら見上げると電車の上部とホームの屋根——当時はごく素朴なトタン素材だった——の隙間から空が見えた。

 

 夜だった。月が光っていた。星も光っていた。そして空は青かった。絵本のように黒くはなく、鮮やかな青色だった。わたしはホームと電車の隙間にずぼりとはまった。その後はこってり叱られたと思うのだが、よく覚えていない。覚えているのはホームの屋根と電車の上部に切り取られた思いがけない青い色、そこに散っていた星々の光のことだけだ。

 

 大人になったわたしの夜は長い。睡眠障害気味なのだ。今はもう、夜の色は周囲の灯りに左右されることを知っている。山手線の主要駅から見る空なら、日本でも有数の明るい青だろう。ローンを組んで郊外に買ったこのマンションの上の空はもっと色が濃い。それでもわたしの目には黒より青に見える。そういう視覚特性なのだろう。

 

 ママ。娘の声が聞こえて、わたしは振り返る。娘は居間の前で所在なげに立っている。娘は宵っ張りで、しかも眠りが浅い。わたしに似たのだろう。ひとりで寝かせているけれど、夜中に起きると不安になるようだ。みきちゃん、寝なさい、とわたしは言う。ママは、と娘が言う。お定まりの会話だ。わたしはせりふをなぞるように言う。ママはいいんだよ。ママは大人だから。

 

 そばに寄って軽く頭を撫でる。かがんで背中をとんとんする。娘はため息をつく。わかるよ、とわたしは言う。眠たいのに眠れないんだよね。まずはお布団の中で目をつむって、眠ったふりをしよう、がんばるということがこの世でもっとも通用しないのが眠りというものなんだよ。

 

 わたしは確信しているのだけれど、世の中には眠れない一族がいるのだ。運動不足とか、躾がなっていないとか、そういう問題ではない。悩みがあるか否かも関係があるかもしれないけれど、根本的には体質だと思う。夫のようにおやすみを言って三秒で眠る人間にはわかるまい。わたしたちは毛色のちがう獣のように一定数生まれ、そして苦労する。

 

 ママ、と娘が言う。よぞらは、あおいよね。
 わたしは息を吸う。わたしは息を吐く。娘はどこかで「青空は昼のもの」という知識を得て、自分の世界と外の世界のギャップに衝撃を受けているにちがいなかった。わたしは娘を興奮させないよう、できるだけ小さい、平然とした声をつくり、ゆっくりとささやいた。

 

 みきちゃん、今夜は特別に秘密を教えてあげる。夜の空は青いの。ママの夜空も青いし、みきちゃんの夜空も青い。でも他の人にとっては黒いかもしれない。青黒いという人もいるでしょう。実はね、同じものを見ても、人はそれぞれ、見える色がちがうの。でも怖くないよ。ママは青い夜空を知っているからね。

 

 わたしが夜の空の色に衝撃を受けたのは、絵本の空はそんなふうに塗られていなかったから、それから周囲の大人たちに「青いのは昼間の空だ」とあしらわれたからだった。それからというもの、見るものすべてが信じられなくなった。保育園に行くために歩くことさえままならなかった。道路が見えても道路があるという保証はない、というようなことを、五歳のわたしは考えた。道路に見えるけれど、その上を歩いたら、ずぼりと落ちるかもしれないのだ。

 

 わたしは五歳のあのとき、世界の美しさと不確かさを同時に発見したのだった。娘には美しさのほうを強く感じてほしかった。夜の空は誰がなんと言おうと美しく青いのだと、そう思わせてやりたかった。

 

 おやすみ、とわたしは言った。おやすみ、と娘も言った。

 

 

 

槙野さやか

執筆

槙野さやか

2009年より、短編ブログ『傘をひらいて、空を』を開始。「伝聞と嘘とほんとうの話」を織り交ぜたエントリーを投稿している。1977年、東京生まれ。

Site: http://kasasora.hatenablog.com/


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