毎週日曜夜10時に公開されるナイト・エッセイです。あしたから職場へ向かう皆さんに、おやすみ前にぴったりな読み物をお届けします。

その日、月が片目に忍び込んだ

眠れない夜、月を眺めていたら片目がちくりとして、鏡を見ると黄金色に輝いていた。
まるで月の破片が目に入ったみたいだ。

 

 

「どーすんのよ、それ」
恋人のマルテがテーブルの向こう側で頬杖をつきながら言う。
「放っておくとそのうち本物の月みたいな石の塊になって、元に戻らなくなるのよ」

昼休みのカフェテリアは多くの生徒でごった返している。
ルネたちはいつものように窓際の席を陣取り、ランチを食べていた。
この学園自慢の一面がガラス張りの広大な施設で、高等部の生徒の多くがここで休み時間を過ごす。

「”眼球月化症”」
マルテはスマホでWikipediaを開いて読み上げる。

「”満月の夜のみに発症する奇病。罹患した眼球は通常1ヶ月ほどで徐々に硬化し、月球のような石質の塊になる。そうなると2度と元に戻らない”」

「知らなかったなぁ」
ルネは大げさに頭を掻いてみせた。
「バカね。注意報が出てるじゃないの。とりわけ十五夜の月は危ないって」
窓辺の樹々たちは夏の瑞々しさを残しながらも徐々に色づき始め、黄金色の体を秋風に揺らしている。
ルネたちのところにもその風は届いた。刈り上げたばかりのうなじを、心地よく吹き抜けてゆく。

「“治すには、次の満月の晩に再び月を眺めること、もしくは同じ症状の者と見つめ合うこと”。月は恥ずかしがりだから、自分の姿を見ると逃げ出したくなるんだって」
「なんだよ、それ……次の満月の晩が曇りだったら?」
「アウト、じゃない?」
そう言いながらマルテはテーブル越しに手を伸ばすと、ルネの眼帯をめくりあげた。布地と頰の隙間から、トパーズのように柔らかな山吹色の光が漏れる。
「恋人からの電話にも出ずに、月なんて眺めてるからバチが当たったのよ」
ぱちん、と乱暴に手を離され、いて、とルネは声をあげる。
今日のマルテはーーいや、ここ最近の彼女は機嫌が悪い。その訳に、ルネは十分すぎるほど心当たりがあった。
「それとも何、私よりも優先するべき大事な考え事があるのかしら?」
マルテはくせの強い赤毛を搔き上げると、眉をひそめてルネを見た。三日月のように涼やかな眦(まなじり)は美しいが、釣り上ると怖い。彼女が一度こうなったら納得するまで問いただされることを、ルネは身を以て知っていた。さて、どうやって誤魔化そう。

 

「学校が終わったら、叔父貴に相談してくるよ。このままじゃさ、キスするときに君が眩しくて困るだろ」
「私は一生、あんたが眼帯でも困らないけどね」

マルテは「次、移動教室だから」と言うと、ガタン、と大きな音を立てて立ちあがった。
去り際、首をぐいと掴まれて強引にキスされる。彼女が食べていた、いかにも学食らしい薄平べったいカレーの味がしてルネは顔をしかめた。マルテはそれを見て「何よ」と叫ぶと足音を響かせて行ってしまった。
近くにいた女生徒たちが、こちらを見てくすくす笑っている。困ったような笑みを作って彼女らを見返し、次の瞬間、ルネはハッとして後ろを振り返った。

ーー今の光景を、見られてやしないだろうか。

後方にはいくつかのテーブルの島があり、その向こう、見慣れた女子生徒のグループがランチを食べている。その中に、長い艶やかな黒髪の後ろ姿があった。ちょうどルネとは真反対を向いていて、顔は見えない。友人たちとの談笑に夢中なのか、細い肩は小刻みに揺れている。
よかった。見られてはいないみたいだ。

 

 

放課後に叔父貴のところに行く、と言ったのは嘘だ。
本当は、ルネは今朝方すでに叔父の持つ眼科を訪ねていた。

思った通り、朝7時でも彼は診察室と続きの簡易宿泊部屋に居た。大方、昨晩に女でも連れ込んだのだろう。相手の姿はすでに無かった。
ほとんどやぶのような腕前のくせ、女性の患者が絶えないのは別の腕が立つからだと近所でも噂されている。

叔父はルネの片目を覗き込むなり
「相変わらずプレイボーイだな」とニヤニヤしながら言った。
「今度の相手、男?女?」
「何を言ってるんだ」
ルネは憮然とした。
「心当たりはないのか」
「どう言う意味だよ、僕はただ月を見て、」
この叔父は医者のくせ、やけに回りくどい喋り方をする。早くしないと始業時間に間に合わない。
「まあ聞けよ、その心持ちが重要なんだ……いいか、まだ世間にゃ広まっちゃいない情報だがな、この病気には最近新たに2つの罹患条件があることがわかったんだ」
「はぁ」
「一つは、男は左目、女は右目に発症すること。もう一つは」
セルロイドのメガネを押し上げ、彼は続けた。
「月を見て、恋の相手を想像すること」
叔父のにやにや笑いの意味がわかり、ルネは途端に赫くなった。
「恋わずらいの最中の人間には、心に隙が生まれる。月はそこに忍び込むんだろう。月も、地上の世界を見てみたいんじゃないか? 恋する人間の眼に映る、美しい世界をね」
「ばかな、ロマンチックが過ぎる」
「相手、よく一緒にいる赤毛の子ぢゃないんだろう、知られたらどうする」
「……本当にまだ世間に出回ってない情報なんだろうな」
ルネはしかめっ面をした。マルテに知られたら、勘の良い相手のこと、すぐに気づくはずだ。
「案外、成就するいいチャンスかもよ。あなたのおかげでこんなになってしまいました、って、相手に伝えればいい」
「よせよ、そんなお仕着せがましい思いは抱いてないつもりだ。それに、彼女はそういうんぢゃない。僕はただ」

見ていたいだけだーー、そんな歯の浮くような台詞を言いかけて、この叔父に聞かれてはなるまいと慌てて口を塞ぐ。

「きっかけにすればいいってだけの話さ」
そう言うと彼はルネを診察室から締め出した。
「おい、それで、どうしたらいいんだよ」ルネは扉を叩いた。片目が見えなくなっては困る。

「同じ硬化症の人間を探して、見つめあってもらうんだな、それしか道はないぜ」
欠伸混じりのくぐもった声が、扉の向こうから聞こえてきた。
扉の上の時計はすでに始業の10分前を指している。ルネは仕方なく退散した。

 

 

「どうやって見つけろって言うんだよ、ったく」
一人食堂に残されたルネはため息をついた。片目ではやりづらくてしょうがない。体育では「優」しか取ったことのないルネだが、午前中の体育では3回も平均台から落ちた。利き手の側が見えないのだから尚更だ。普段は意識しないくせ、生きる上で「見る」と言う行為にどれだけ頼っているのかがよく分かる。

もうすぐ午後の授業のベルが鳴る。潮が引くように、食堂からは人影が減りはじめている。
彼女たちのグループも、もう席を立つらしい。華やかな笑い声と、複数人が椅子を引く騒がしい音が響いてくる。それに入り混じり、彼女の鈴のように軽やかな声が聞こえてきて、ルネは思わず耳をそばだてる。

彼女とは何も接点がない。クラスも別、登下校の方向も異なる。何かしら口実を作り、女生徒と仲良くなるのが得意なルネも、彼女相手にはそれができずにいた。彼女の凛とした佇まいには、邪な気持ちで近づくことをためらわせるものがある。

”ただ、眺めていたいだけだ。”
ーーけど、片目ではそれすらおぼつかない。

彼女の声が離れてゆく。
最後にもう一度だけ、と、ルネは再びそうっと振り返った。

不意を突かれてどきりとした。
彼女もこちらを見ていた。

白い頬、遠目からでもわかる赤い唇。
こちらを射ている左目。
あまりに黒く、透き通るような。
もう片方は、ルネと同じく眼帯で覆われている。
ルネは息を飲んだ。

やにわに、にこり、と微笑むと、彼女は耳にゆっくりと手をかけた。

細い指が紐に絡まる。
さら、と黒い髪が揺れる。

胸にはルネと同じ学年であることを示すえんじ色のスカーフ。ルネはスラックスを選択したが、この学園のほとんどの生徒は創立以来変わらぬ白いセーラーを着用している。男子生徒1人の立ち入りも許さない、筋金入りの女子校であるこの学園の。

はらりとこぼれ落ちた白布の下では、十五夜の月のような黄金色の瞳が燦然と輝いていた。

小野美由紀

執筆

作家

小野美由紀

1985年東京生まれ。著書に、銭湯を舞台にした青春群像小説『メゾン刻の湯』(2018年2月)「人生に疲れたらスペイン巡礼 飲み食べ歩く800kmの旅」(2015)「傷口から人生」(2015)絵本「ひかりのりゅう」(2014)など。月に1回、創作文章ワークショップ「身体を使って書くクリエイティブ・ライティング講座」を開催している。


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