毎週日曜夜10時に公開されるナイト・エッセイです。あしたから職場へ向かう皆さんに、おやすみ前にぴったりな読み物をお届けします。

岩山に眠る少女

 

 

旅の途中で、どこかに心を置き忘れてきてしまった。

しかし一体いつ、どこで?

青々とした棚田越しに海を見下ろす丘の上か。

2匹のカニが、人間の目を盗むようにそろそろと歩いていた砂浜か。

一羽のトンビが目の前を何度も横切った、山の上に建つホテルの窓辺か。

どうも違う。

そうだ。きっと、最後の日に訪れた、人気のないロープウェイの中。

山のふもとから山頂近くの寺へと続く、数分間の道のり。

 

 

「発車します」

運転手さんの抑揚のないアナウンスとともにロープウェイが動き出す。室内にはすぐに、古めかしく、なんともいえない寂しさを誘う女性の独唱がスピーカーから流れ始める。このテープは今までにも何百回、何千回と再生されてきたんだろう。ところどころ音がのっぺりと間延びし、歌詞を聞き取ることすら難しい。ただ気を抜いていると、伸ばした音の機械音にも似たビブラートに、意識を絡め取られそうになる。

 

音楽と歩調を合わせるかのように、ゆっくり、ゆっくりと山の上を進むロープウェイ。前方にそびえるごつごつとした巨大な岩肌に気を取られている中、ふと脇に目をやると、森の茂みに隠れるように、深緑色をした沼があるのが見えた。きっと山のイノシシやたぬきが、夜中に水を飲みに来るのだろう。

 

ロープウェイを降りると、停車場から寺までは歩いて数分。立派な本殿にお参りをする。

境内に立ち、ふと視線を上げると、さきほどの岩盤がより近くに迫っていた。よく見ると、岩肌はのこぎりの刃のように均等に、ギザギザにせり出していて、そんなことは絶対にありえないのだけれど、まるで大きな力を持つ誰かが、意図して作り上げた造形のようにも見えた。

 

帰りも、来たときと同じロープウェイに乗って山を下りた。

さっきと同じ運転手さんが「発車します」と言うと、さっきとは違う音楽が、さっきと同じようにそこはかとないわびしさを湛えながら室内に響いた。

 

 

旅から戻ってもなんとなく、あの日のことを忘れられずにいた。

最初のうちそれは、ロープウェイの中で耳にした、あのさみしい音楽が耳の奥にこびりついて、剥がすのに時間がかかっているせいだろうと。そんな風に思っていた。

 

けれどもあの日の景色を思い出すたびに、どうもそうではないのかもしれない、と思うようになった。あの場でたしかに感じ、触れたはずのもの、しかし掬い上げずにきたものが、どうもあるらしいのだ。

 

それからしばらく経ったある夜、私は思いがけず、あの山の夢を見た。

夢の中の私は、あの日と同じようにお参りをして、山を下りようと背を向ける。けれどもふと、誰かに呼ばれたような気がして振り返った。すると、いつの間にかあの巨大な岩盤の一面に、着物を着た、おかっぱ頭の女の子の姿が彫刻されていたのだ。あっと息を飲んで、まじまじと見つめる。岩肌に掘られた女の子は、穏やかに目を伏せている。

 

目覚めた私は驚きながらも、そうか、そうだったのかと、どこか腑に落ちたような感覚に襲われた。

意識で拾い損ねたもの、しかしたしかに無意識が拾い上げていたもの。

それを、心残りに囚われる私に誰かが、夢の中で見せてくれたのだろう。

そんな風に思った。

 

その後、こうしてあの山のことを書こうと思いあらためて調べてみると、もう一度、驚くことがあった。なんでもあの岩山の一角には大昔、偉いお坊さんが彫ったとされる全長3メートルほどの如来像が、今でもひっそりと残っているのだそうだ。

 

あの山にはたしかに“いた”のだろう。

目に見えるものも、見えないものも。生きているものも、そうでないものも。

見えないけれど、たしかにここにいるのだと、こちらに呼びかけていたのだろう。

 

あのとき私は、たしかにそれを感じていたのだ。

 

紫原明子

執筆

エッセイスト

紫原明子

1982年福岡県生。16歳と12歳の子を持つシングルマザー。個人ブログ『手の中で膨らむ』が話題となり執筆活動を本格化。著書に『家族無計画』(朝日出版社)『りこんのこども』(マガジンハウス)がある。


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