毎週日曜夜10時に公開されるナイト・エッセイです。あしたから職場へ向かう皆さんに、おやすみ前にぴったりな読み物をお届けします。

繭に入る

 連日の残業で自宅に帰るエネルギーが尽きた。メッセージを送る。今日泊まりたい。ほどなく返信が来る。好きにしなよ。僕は十一時くらいになる。

 

 あの人が「好きにしろ」という意味でわたしに鍵をくれたのはわかっている。わかっているけれど、いくらなんでも黙って他所の家に入る気にはなれない。どうもあの人にはそのあたりの常識がない。来てよい人はいつ来てもよく、来てほしくない人は何があっても家に入れない。そういう感覚で生きている。

 

 職場から二十分歩く。あの人の家に着く。このあたりは都心も都心だけれど、オフィスビルだけでなく住宅もけっこうあるのだと、あの人と親しくなって知った。私立大学が近くにあって、一人暮らし物件の主たる客層はそこの学生たちであるらしい。

 

 あの人の部屋に入る。ごく新しい、小さな箱状の住まいだ。来るたびに「蚕(かいこ)」を連想する。蚕は升目に区切られた木箱に入っていて、その中に繭をつくる。この部屋にも見えない糸が張りめぐらされているように、わたしには感じられる。

 

 靴を脱ぎ、冗談みたいに狭い玄関からそろりと中に入る。そのプロセスで部屋に張り巡らされた空想上の絹糸が、わたしのからだにまとわりつく。唇、手、肩、背、脚、胸、腰。ユニットバスに入り、シャワーを使う。わたしの髪は黒くて目立つ。バスタブに抜け落ちたそれをていねいに取り去る。

 

 あの人は料理というものを一切しないので、ワンルームのシンクまわりは完全に身支度の場として整えられている。鍋や食器を入れるはずの扉をひらく。ドライヤーを使い、あの人が使っているスキンケア用品を少しもらう。わたしは肌につけるものにうるさくない。何をつけてもだいじょうぶだし、なんなら何もつけなくてもまあいいやと思っている。ドライヤーの隣には床をコロコロしてごみを取る道具があり、わたしはそれを使う。わたしの髪の毛を取る。一本だって残さないように。

 

 ただの同期だったときの彼は、当たり障りのない会話のセットを用意してそれを繰り出しているような感じがした。入れ替え可能な、よくできた機械を前にしているような感覚。たまにいる、とわたしは思った。いるいる、こういうタイプの小器用なコミュ障。人当たりよし仮面。

 

 部屋を見渡す。テレビ、少量の本、少量の服、雑貨の入った小さな箱、買い置きのペットボトル。いま使っているものとすぐに使うものしかない。装飾がない。過去も未来もない。きわめて清潔で美意識のない部屋。箱状の孤独。

 

 あの人が”人当たりのよくない顔”を見せたのは夏のはじめのことだった。この世の終わりみたいな顔をして残業中のわたしの席にやってきた。失敗した、と彼は言った。好奇心でどんなたいへんな失敗をしたのか聞いたら、まったくたいしたことがなかった。リカバリ方法を提案すると彼はとても喜んだ。すごいね、すごいね、ありがとう、と言った。わたしはよく失敗するからリカバリの方法を手広く押さえているのだ。新卒から三年もトラブルなしで突っ走ってきたのか、この人は。そう思った。

 

 よほど甘い顧客ばかり引き当ててきたか、どうしようもなく優秀か。どちらにしても、ちょっと腹が立った。お礼って口で言うだけじゃだめだよ、何かおごってよ、とわたしは言った。彼はうつむき、ちょっと顔をゆがめるようにして笑った。

 

 あのとき、繭は破れ、その中からあの人の手が伸びてきたのだ。わたしはそう思う。だからわたしは今、あの人の繭の中にいるのだ。空想上の絹糸がわたしの首に巻きつく。わたしは繭の中央に寝そべり、真っ白い天井を見上げている。

 

 朝になったら、とわたしは思う。目が覚めたら、どこもかしこもコロコロしていかなくては。あの人はわたしの家に来たいと言ったことがない。わたしを好きだと言ったことがない。だからわたしはわたしの痕跡をすべて消し去らなければならない。あの人はたぶん、わたしの繭に入りたがってはいないんだもの。そうしてあの人の繭に入ることができるのは、わたしだけではないかもしれないんだもの。

 

 

槙野さやか

執筆

槙野さやか

2009年より、短編ブログ『傘をひらいて、空を』を開始。「伝聞と嘘とほんとうの話」を織り交ぜたエントリーを投稿している。1977年、東京生まれ。

Site: http://kasasora.hatenablog.com/


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