毎週日曜夜10時に公開されるナイト・エッセイです。あしたから職場へ向かう皆さんに、おやすみ前にぴったりな読み物をお届けします。

微生物を似せる

 膝掛けとして使っている薄い毛布を肩まで引き上げる。うちのにおいがする。子どものころ、他人の家に行くと他人のにおいがした。今のこの部屋のにおいのうち、僕の配分は95%くらいだと思う。 

 

 僕の部屋は細長くて、テレビの正面の壁際が僕の定位置だ。テレビは地上波ではなく、ネット配信のてきとうな映像を流している。家にいて眠っていないときの僕はたいてい、薄い毛布にくるまって、その映像をなんとなく目に入れている。

 

 この部屋に帰って使い慣れた毛布をからだに巻きつけると脊髄反射的に安らぐ。最高に安全な感じがする。僕はもわもわしたものにくるまっているのがとにかく好きなのだ。けれども、今日は少し違和感があった。イレギュラーな使用があったせいだ、と僕は思う。毛布を洗ったほうがいい。

 

 一昨日の金曜日の夜、女の子が来た。そうして夜のあいだ、毛布をかけたり敷いたりぐちゃぐちゃにしたりしながら過ごした。この毛布がうちに来て以来のハードワークを課した。だから洗濯したほうがいい。そう思う。

 

 家のにおいの構成要素は食べ物や香料、それから微生物であるらしい。細菌とか、そういうやつ。人間の体表にも内臓にも細菌叢はあって、そりゃあもううじゃうじゃといて、そいつらも生命活動をしたり死骸になったりする。そういう話を彼女はした。だから人間同士が長期間同じ空間にいて接触していると細菌叢が似るんだって。ロマンティックだよね。

 

 ロマンの感覚がずれていると僕は思う。自分の体内の無数の細菌を思い浮かべる。キモいと思う。どの部分にある細菌から似るんだろうと思う。どこから似るかというとね、と彼女は言う。声に出していないのに。僕は驚いて、うれしくなる。

 

 考えていることを先取りされるとうれしかった。そのことをぼんやりと思い出す。キモい微生物が僕の想像の中でうごめく。僕はずっとひとり暮らしだから、僕の飼っている微生物の構成はもう誰とも似ていないはずだ。そう考えてから、もしかして子どものころから誰とも同じ細菌構成ではなかったのかもしれないと思う。そう考えれば、僕が生家にまったく馴染めなかったのもうなずける。

 

 両親とは細菌がちがったのだ。その証拠にあの家は金属質のいやなにおいがした。清潔なふりをしたって僕はごまかされなかった。僕が十歳のときに亡くなった祖父だけは清潔だった。僕にはそう感じられた。僕があまりにも両親にしたがわないものだから、祖父が亡くなったあと、祖父の部屋を与えられ、食事もなにもかも別々にしていた。それが苦痛でもなかった。僕は夜中と早朝に台所をあさり、シャワーと洗濯機を使い、それから部屋に引っ込んで、祖父が使っていた布団で眠った。生家を出る前の記憶は全体にあいまいで靄がかかっている。

 

 僕は右手の親指と人差し指の爪をはじいて小さな音を出す。その音で僕の想起する内容はすっと入れ替わる。頭の中に週末のできごとが上映される。金曜日の夜は特別だった。祖父が何の予告もなく隣町の夜祭りに連れて行ってくれた日みたいだった。暗いところ、光って見えるもの、怖がっていないふり。そうして土曜日の早朝、彼女はさっさと帰ってしまった。

 

 気がつくと部屋のにおいは元に戻っている。そのような気がする。他人の細菌が消えてしまったのだと思う。毛布を洗ってもいないのに。僕はため息をつく。この部屋に人が入るのははじめてのことだった。誰かと多少親密になっても、ものごとは外で済ませていた。自分の部屋にはぜったいに人を入れたくなかった。それが一昨日の夜、いっぺんに変化したのだ。思い出すたびびっくりする。たいへんなことが起きたものだ。どうしよう。  

 

 夜はぬるく粘度の高い液体のようにこの部屋に満ちている。僕はスマートフォンを見る。「おやすみ」と入力する。おやすみ、と返ってくる。そんなはずはないのに、いいにおいがした。

 

 

槙野さやか

執筆

槙野さやか

2009年より、短編ブログ『傘をひらいて、空を』を開始。「伝聞と嘘とほんとうの話」を織り交ぜたエントリーを投稿している。1977年、東京生まれ。

Site: http://kasasora.hatenablog.com/


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