【サウンドクリエイター・志倉千代丸】睡眠時に行う独自の作曲法とは

ゲームミュージックの制作やアニソンシンガーへの楽曲提供など、サウンドクリエイターとして作曲から作詞まで取り組んでいる志倉千代丸さん。音楽以外にも、アドベンチャーゲームの名作「STEINS;GATE(シュタインズ・ゲート)」では企画原作を手がけ、ライトノベルの執筆や、インターネットを活用した通信制高校の創立にも携わり、理事を務めるなど、オールラウンドに活動。
 
今回はそんな志倉さんの創作活動に関わるストイックなネタ集めや、作品の制作にも大きく影響を与えているというユニークな睡眠事情についてお話を伺いました。

 

 

少年時代に夢中になった遊びは「妄想パソコン」

少年時代に夢中になった遊びは「妄想パソコン」

──作曲やゲーム制作など、自由自在にプログラミングして、活躍の場を広げている志倉さんですが、そもそもパソコンやコンピューターに興味を持ったのは、いつごろなのでしょうか?
 
「小学生のころですね。僕が小学生だった1980年代は、まだ一般家庭にコンピューターが普及していない時代で、憧れの象徴でした。当然、我が家にもコンピューターはなかったので、コンピューター雑誌の付録としてついてきた“紙のキーボード”でカチカチと打ち込む遊びをしていたんです。ひたすらタイピングの練習をしたり、雑誌に書いてあるプログラミングのリストを打ち込んだりして、憧れを妄想で満たしていました。すべて、脳内にある画面にちゃんと入力されていましたよ(笑)」(志倉さん)
 
──想像力豊かな少年だったのですね。では、それからどうやって本物のパソコンに触れるようになったのですか?
 
「ひとりで『妄想パソコン』に没頭している僕を見て、両親がふびんに感じたのか、ある日30万円ぐらいする高価なパソコンを買ってくれたんです。念願の“マイコン”です。早速、当時ゲームセンターで大流行していた『ハイパーオリンピック』を真似したゲームを作りました。ある程度のプログラミングの知識はあったので、アスキーアートのような単純な見た目のゲームならお手の物でした」(志倉さん)
 
──自作したゲームで友人と遊ぶことはありましたか?
 
「自分でプレイしたり、友達を家に招いてゲーム大会を開催したりしていましたね。当時は、そのためだけに、眠る時間を惜しんでプログラムを打ち込む日々でした。そんなある日、ゲームが完成間近というタイミングで、父親のいたずら心によってパソコンの主電源を一瞬切られるという『大事件』が勃発し、データがすべて飛んでしまったことがあったんです。かなりのショックで半日泣き続けましたが、この経験によってこまめなデータ保存の重要性を学びました(笑)」(志倉さん)
 
──そんなプログラミングに夢中だった少年がいつ、どんなきっかけで音楽に興味を持ち始めたのでしょうか?
 
「中学生のころでした。一つのきっかけは『女の子にモテたかったから』です(笑)。当時はバスケットボールや水泳などの部活動に積極的に取り組んでいたものの、まあそうでもなくて…(苦笑)。そこで、これならモテる! と確信して、当時流行っていたロックバンド「BOØWY」や「BUCK-TICK」のコピーバンドを始めたんです。ただ、パート決めのじゃんけんで負けてしまって、一番人気がなかったドラムを担当することになったのは想定外でしたけど(笑)」(志倉さん)
 
──当時からオリジナルの楽曲も作っていたのですか?
 
「僕らのバンドは、活動初期からオリジナル曲をやっていました。ピアノが弾けたので僕が作曲を担当し、そのメロディーに合わせて作詞も始めるようになりました。自主制作でCD を数枚売り出す程度のアマチュアバンドでしたが、そこそこ人気はあったんですよ。ある裏技を使って、ライブハウスに400〜500人ものお客さんを動員し、地元の『最多動員バンド』になったこともあります」(志倉さん)
 
──そんなに集められるとは! 一体、どんな手を使ったのですか?
 
「実は高校卒業後に、新聞の求人広告欄で“中学校の用務員”の募集を見つけて、就職したことが関係しています。ライブの呼び込みをするためには、バンドに興味がありそうな学生が大勢いるところがいいと思っていたので、まさにぴったりでした(笑)。19歳の用務員が珍しかったのか、ゴミ箱を抱えた長蛇の列のほとんどが女子! ちょっとした握手会状態でしたね。あれが人生で一番輝いていた瞬間だったんだと思います(笑)。アイドルみたいにちやほやされたので、その人気にあやかって、学校の近くの焼肉店の駐車場でライブのチケットを販売していました。いま思えば、『中学生相手に何してるんだよ…』という感じですよね。一歩間違えたらPTAから怒られてしまう大問題ですし。まぁそれが僕の個人的な『ロック』だったワケなんですが…」(志倉さん)
 
──確かに(笑)。でも、女子中学生からしたら「憧れのお兄さん」だったのかもしれないですよね。その後、用務員からどういった経緯でサウンドプログラマーになられたのかも気になります。
 
「これにも、紆余曲折がありまして…。まず、20歳ごろに用務員を退職して、本格的にC言語というプログラミングの勉強をしてNECの子会社に就職したんです。そこで、旧インターネット回線の『ISDN』を研究開発するプロジェクトチームの一員となり、バリバリ仕事をこなしていくつもりだったのですが、僕のようなひよっこプログラマーに重責を与えられるはずもなく、主な仕事内容はプログラムに間違いがないかチェックする『デバッグ』というもので、これがあまり面白くないんですよ。おまけに“押すな”と書いてあるサーバーのスイッチを覆うダンボールをちらっとめくっただけでも上司に怒鳴られる始末。それでますますやる気をなくしてしまった最弱な僕は、逃げるように退職し、次の仕事を探していたときに、『ファイヤープロレスリング』や『フォーメーションサッカー』などのスポーツゲームで一世を風靡していたヒューマンというゲーム会社に興味を持ったんです」(志倉さん)
 
──どのような点に惹かれたのですか? やはり幼いころから興味があった“ゲ—ム”という仕事だったから…?
 
「それはもちろんですが、『ゲームは面白いのに、サウンドはポンコツだなぁ。僕だったらカッコいいサウンドが作れるのに!』という非常に図々しい上から目線の気持ちを抱いていたんです。きっと若気の至りってやつですよ(笑)。思い切って面接で『僕がヒューマンを変えてみせます!』と強気な姿勢で臨んだら、まさかの合格。そこから僕のサウンドプログラマー人生が始まりました」(志倉さん)
 
バンド活動とプログラミングの経験。自身が持つ強みを活かせる職場を見つけた志倉さんは、水を得た魚のように、サウンドプログラマーとして躍進していくことになります。
 

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